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戦国武将「武田信玄」

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武田信玄takeda shingen

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甲斐の虎『武田信玄』

「甲斐の虎」という異名を持つ戦国屈指の名将「武田信玄」。
戦国時代の武将、甲斐の守護大名・戦国大名。
甲斐源氏の嫡流にあたる甲斐武田家第19代当主。
甲斐の守護を代々務めた甲斐源氏武田家第18代・武田信虎の嫡男。
先代・信虎期には国内統一が達成され、信玄も体制を継承して隣国・信濃に侵攻する。その過程で越後国の上杉謙信と五次にわたると言われる川中島の戦いで抗争しつつ信濃をほぼ平定し、甲斐本国に加え信濃、駿河、西上野、遠江、三河と美濃の一部を領し、次代の勝頼期にかけて甲斐武田家の領国を拡大した。
晩年、西上作戦の途上に三河で病を発し、信濃で病没した。
「風林火山」の軍旗を用い、甲斐の虎または、龍朱印を用いたことから甲斐の龍とも呼ばれ、無敵と呼ばれた騎馬軍団を率いた。また、上杉謙信の良きライバルとしても有名。
生涯で70回以上の合戦に参戦しているが、敗北はわずか6度しかない。そのうちの2度は信濃の村上義清に喫している。



出生について

武田信玄は、甲斐国守護:武田信虎の嫡長子として生まれる。
母は西郡の有力国人であった大井氏の娘:大井夫人。
信玄の出生は信虎による甲斐統一の達成期にあたり、生誕地は躑躅ヶ崎館に付属した城として知られる要害山城であった。
信虎は駿河国の今川氏を後ろ盾とした甲府盆地西部(西郡)の有力国衆であった大井氏と対決していたが、大永元年(1521年)10月には今川家臣”福島正成”率いる軍勢が甲府に迫り、信虎は甲府近郊の飯田河原合戦において福島勢を撃退している。
この際に大井夫人は詰城である要害山へ退いていたといわれ、信玄は要害山城において出生した。



信濃国の統治

武田信玄は家督を相続すると父:武田信虎路線からの変更を行い、信濃諏訪領への侵攻を始めた。

天文11年(1542年)6月に信玄は諏訪氏庶流である高遠頼継とともに諏訪領への侵攻を開始し、諏訪頼重を甲府へ連行して自害に追い込み、諏訪領を制圧した。

武田軍はさらに天文12年(1543年)には信濃国長窪城主である大井貞隆を攻めて自害に追い込んだ。天文14年(1545年)4月、上伊奈郡の高遠城に侵攻し、高遠頼継を、続いて6月には福与城主である藤沢頼親も滅ぼした。父:信虎時代は対立していた後北条氏とは天文13年(1544年)に和睦し、その後も天文14年の今川氏と後北条氏の対立(第2次河東一乱)を仲裁して、両家に大きな「貸し」を作った。それによって西方に安堵を得た北条氏康は河越城の戦いで大勝し、そうした動きが後年の甲相駿三国同盟へと繋がっていった。

今川・北条との関係が安定したことで武田軍は信濃侵攻を本格化させ、信濃守護:小笠原氏、小県領主:村上氏らと敵対する。天文16年(1547年)には関東管領勢に支援された志賀城の笠原清繁を攻め、同年8月6日の小田井原の戦いで武田軍は上杉・笠原連合軍に大勝する。また、領国支配においても分国法である「甲州法度之次第」(信玄家法)を定めている。

天文17年(1548年)2月、晴信は信濃国北部に勢力を誇る葛尾城主:村上義清と上田原で激突する(上田原の戦い)。上田原合戦において武田軍は村上軍に敗れ、宿老の板垣信方や甘利虎泰らをはじめ多くの将兵を失い、信玄自身も手傷を負った。この機に乗じて同年4月、小笠原長時が諏訪に侵攻して来るが、信玄は7月の塩尻峠の戦い(勝弦峠の戦い)で小笠原軍を撃破した。

天文19年(1550年)7月、信玄は小笠原領に侵攻する。これに対して小笠原長時にはすでに抵抗する力は無く、林城を放棄して村上義清のもとへ逃走した。こうして、中信は信玄の支配下に落ちた。

勢いに乗った信玄は同年9月、村上義清の支城である砥石城を攻める。しかし、この戦いで武田軍は後世に「砥石崩れ」と伝えられる大敗を喫した。

しかし、天文20年(1551年)4月、真田幸隆の策略で砥石城が落城すると、武田軍は次第に優勢となり、天文22年(1553年)4月、村上義清は葛尾城を放棄して越後の長尾景虎(上杉謙信)のもとへ逃れた。こうして東信も武田家の支配下に入り、信玄は北信を除き信濃をほぼ平定することに成功した。



川中島の合戦

天文22年(1553年)4月、村上義清や北信豪族の要請を受けた長尾景虎(上杉謙信)は、武田信玄が平定した信濃出兵を開始し、以来善光寺平の主導権を巡る甲越対決の端緒となる(第1次川中島の戦い)。
この時は、景虎方に武田軍の先鋒を布施、八幡にて撃破される。
景虎は武田領内深く侵攻するも信玄は決戦を避ける。
その後は景虎も軍を積極的に動かすことなく、両軍ともに撤退した。

永禄4年(1561年)の第四次川中島の戦いは一連の合戦の中で最大規模であった。
武田方は信玄の実弟である武田軍副将:武田信繁をはじめ武田家重臣:諸角虎定、足軽大将:山本勘助、三枝守直ら有力家臣を失い、信玄自身までも負傷した。

第四次川中島合戦を契機に信濃侵攻は一段落し、以後は西上野出兵を開始しており、この頃から対外方針が変化しはじめる。
永禄7年(1564年)にも上杉軍と川中島で対峙したが、衝突することなく終わっている(第5次川中島の戦い)。



詳細情報

  • 生没年:1521年11月3日〜1573年4月12日(大永1〜元亀4)
  • 出身地:甲斐国(山梨県)
  • 別名:甲斐の虎、甲斐の龍
  • 幼名:勝千代、太郎
  • 官位:従四位下、信濃守、贈従三位
  • 享年:53歳



年表

  • 1521年:甲斐国に生まれる
  • 1536円:元服し初陣を飾る
  • 1541年:父である武田信虎を追放
  • 1542年:諏訪を平定
  • 1547年:「甲州法度之次第」を制定
  • 1561年:第四次川中島合戦
  • 1565年:息子である武田義信を幽閉
  • 1568年:駿河侵攻
  • 1572年:三方ヶ原の合戦
  • 1573年:信州・駒場で病死



武田信玄肖像画

武田信玄



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戦国武将とは
応仁元年(1467年)に戦国時代幕開けのきっかけとなった大乱である応仁の乱が勃発してから、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で摂津大阪城が落城するまでの約一世紀半の間に、武力・知力・財力などを用い、その名を天下に知らしめた武士たちのことです。
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