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戦国武将「前田慶次」

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前田慶次maeda keiji

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傾奇者『前田慶次』

戦国時代屈指の傾奇者「前田慶次」。
前田慶次は、彼を主人公とした「花の慶次」というマンガの大ヒットによって戦国武将ファンのみでなく幅広い人たちもその名を知らしめた人気武将の一人である。
慶次が身に着けていた鎧兜は、深紅の胴に金色の鱗形、黒い笠形の兜といったかなり派手なものであった。
まさに傾奇者の名にふさわしい鎧兜だったといえる。
慶次は傾奇者として様々なエピソードを持っているが、その中でも天下人であった豊臣秀吉に関係するものが有名である。
秀吉が催した宴の席に紛れ込み、秀吉のニックネームである「猿」をふまえ猿のお面をつけて、諸大名を目の前に踊りを披露したのだ。
天下人を命がけでからかうという普通の人では考えられないようなことをやってのけたのである。



体格について

人気漫画作品「花の慶次」で「身の丈六尺五寸(197cm)の大柄の武士」として描かれて以来、マンガやアニメなどで体格の良い大男として描かれる事が多い前田慶次ですが、実際には身長に関する過去の文献は一切存在せず、慶次の所有のものと思われる現存の甲冑も、他の武将の甲冑と比べて特別大きさは変わりません。
つまり、慶次の体格については誤ったイメージを抱いている可能性があるのです。



水風呂の逸話について

前田慶次には日頃から世の中を甘く見て人を小馬鹿にするという悪い癖があり、
そのことを叔父の前田利家から度々教訓されていました。
しかし、慶次はまったく聞く耳を持たず、それどころか利家に仕返しをします。
ある時利家に「これまでは心配をかけてしまい申し訳ありませんでした。
これからは心を入れ替えて真面目に生きるつもりでございます。茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいです。」という申し入れをしました。
利家は慶次がやっと改心したと喜んで、慶次の家を訪ねると慶次は「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」と利家に勧めました。
利家は「それは何よりのご馳走だ!」と快く承諾し慶次と風呂場へ向かいました。
利家が衣を脱いでいると、先に慶次が「丁度良い湯加減です。」と言ってその場を去りました。
利家がそれを聞き安心して湯船に入ると、身も凍る氷のような冷水でした。
これには温厚で知られる利家も激怒して「馬鹿者に欺かれた!引き連れて来い!!」と供侍へ怒鳴りましたが、
慶次は松風(利家の愛馬)へ乗ってその場から立ち去っていました。
この逸話は前田慶次のものでは特に有名ですが、その信憑性については決して高くはありません。



詳細情報

  • 生没年:1533年?月?日〜1612年?月?日(天文2〜慶長17)
  • 肩書き:武将
  • 出身地:越後国(新潟県)
  • 通称:慶次朗、利大、利治
  • 別名:龍砕軒不便斎
  • 享年:80歳(?)



年表

  • 1533年:越後国に生まれる
  • 1581年:叔父である前田利家に仕官する
  • 1582年:本能寺の変が起きる
  • 1584年:小牧・長久手の戦いに参戦する。
  • 1590年:前田家を出奔する
  • 1598年:上杉家に仕官する
  • 1600年:長谷堂城の合戦に参戦する。
  • 1612年:米沢で病死



前田慶次肖像画

前田慶次



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戦国武将とは
応仁元年(1467年)に戦国時代幕開けのきっかけとなった大乱である応仁の乱が勃発してから、元和元年(1615年)の大阪夏の陣で摂津大阪城が落城するまでの約一世紀半の間に、武力・知力・財力などを用い、その名を天下に知らしめた武士たちのことです。
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